【 カスタム 昔ばなし 】
掲載日 2020-01-31
♪♪♪ぼうや〜 良い子だ ねんねしな〜♫
はい、今日はアメリカの昔のお話です。
【第1話】
もう今から30年も昔の話、アメリカのピッツバーグというところに
P.M.というキュー作りの大変好きな人がいました。
彼の作るキューはとってもきれいなんだけど、
作っても作ってもなかなか売れずにいて、
もうキュー作りを辞めようか、というところまでいっていたそうな。
それを人づてに耳にしたある人が彼をかわいそうに思い、
キューを大量にオーダーしようと電話したんだけど、
とにかく全然繋がらない。
何度電話をかけても全然ダメで、
どうしたものかと諦めかけたところに別な人がアドバイスしてくれた。
「キュー作りをしている人は、日中は機械が動いていて
音が大きいから電話の呼び鈴は聞こえないし、
接着やら塗装の時は手を離せないタイミングが多いのさ。
電話をするなら夕方4時から8時までがつかまりやすいよ。」
なるほど!
そこで日本から時差を考えて改めて電話をしてみたら、
本当にすぐ出たのでビックリしたんだと。
一生懸命下手な英語で話をしたそうなんだが、
そのキューメーカーP.M.はとても無口な人でナーンにも話さなくてまたビックリ!
揚句の果てに「注文は全部FAXでくれ」と言われてぶっ飛んじゃったんだと…。
それでFAXで20本ほどオーダーしたそうなんだけど、
きっとメーカーもぶっ飛んじゃっただろうね〜!!
…彼はそれでしばらく大好きなキュー作りを続けられたそうです。
メデタシ、メデタシ!!!
P.S.
彼はこの後3年ぐらいでまた作るのを辞めたい、さっぱり売れないと言ってきたのよ。
それで今度は27本のオーダーをしたの。
そしたらそれからはずっとキュー作りを続けられたんだとさ。
彼のキューが売れなかった原因はフォアアームが細すぎたことにあったので、
もっと全体をふっくらとして作ることを提案してみたわけ。
彼のキューは東欧のスタイルで全体が細くてネ。
チェコの人には売れても。ポケットでは少し向かなかったみたいだね。
【第2話】
むかーしむかし、アメリカのラスベガスにJ.F.というキューメーカーがいたんだとさ。
Jはとっても評判の良い人でお話好き。
誰とでも明るく接して他の人ができないこと、わからないことはぜ〜んぶ教えてくれたんだって。
カリフォルニアのCやMもJからたくさんのことを教わったと言っているけど、
はたから見るとな〜んにもど〜こも似ていない…。
似ているところがあるとすれば、ジョイントがフラットなところぐらいかな?
Jのお師匠さんは大御所のKで、
カスタムの世界で知らない人は海女かもぐりぐらいと言われる程…(深く潜水…)
あちこちの本に「JはKの下で2年程みっちり教わった」というのは記してあることだけど、
Jに直に聞いたら、自分のキュー(J)とKは基本的に全く違うんだと言っていた。
どこが違うのかと聞いたら、まずいちばんはジョイントピン。
Kのは緩くてルーズで自分は好きでなく、
自分のはきちんと山を高くしてしっかり密着できているんだって。
そしてテーパーも。Kはキャロムの流れも持っていてふっくらしているけど、
自分のはもっと接触が短い9ボール向きだ、と言っていたネ。
私はラスベガスにいるとき、日中は毎日ずっとJの工房に居て
たくさんのことを直に教わったのよ。
オーダーしなくてもずっと居られたの。
お昼ご飯もドリンクも付いていたネ、タダ!!
でもJの奥さんが顔を出すと、とたんに工房から追い出される。
工房も和やかな空気から一転、ただの作業場に変わっちゃった。
厳しい、怖い奥さん…。
奥さんはJがKに教わった、というのを心よく思っていなくて、
ただ働きさせられたと思っていたみたい。
80年代はKは入院がちだったので、JがKのところに行って
たくさんの作りかけのキューを全部仕上げたのよ、と私に教えてくれたっけ…。
Jの独立前の2年間はずっとそれをしていたんだって。(1980〜1982)
どうりでJの最初の数年間の作品は全盛期に比べてさっぱり良くなかった訳だ。
Kからしっかり教わっていなかったから接続部が甘くて、
撞き味もまだ良くなかったんだね。
こっちは裏の事情も全く知らなくて…
Jのキューがこんなに良いんだから、
絶対にお師匠さんのキューは絶対もっともっと良いハズ、
と思ってせっせとKの作品を買い集めたのよ、
あっという間に50本にもなったの。
86〜87年頃かなぁ…当時Kのキューは売れてなかったね。
ダ〜レも集めていなかったのよ。
Kの部屋に転がっていたキューも全部奥さんが持ってきて私に売ってくれたわけ。
入院費の不足分だって。本人の許可なしだよね、オソラク…。
私がKのキューをたくさん買って、もう買える品物がなくなり、
ようやくJのキューを買い始めたのが89年頃だったかなぁ。
これもすぐに50本ほどになってネ。誰もあまり買わなかったネ。
当時のJのキューは大好きでもっともっと欲しかったけど、
96年のある日、Jは突然心臓麻痺で死んじゃった…(涙)。
しかも私が3年がかりでオーダーしたキューを
Jの奥さんは別のコレクターに大金で売ってしまったの。
そして私に言ったのは「Jが売った。」だって…。
彼女は死んだ旦那に罪を被せた訳よ。
もう頭にきちゃったよね…Jはそんな事をする人では絶対にない!
もし奥さんが「そのキューはJの最後の大作だから妻である私に下さい」と言ったら私は絶対にあげたのになぁ。
でもそのキューを手にした人は、今ではJとKの世界一のコレクターとなりましたとさ。
メデタシ、メデタシ……。
【第3話】
むかーしむかし、アメリカのルイジアナの田舎にキューを作っている人がいたんだとさ。
名前はよく覚えていないけど〜、なんだっけ?
掛け算で言うと4×7…イヤイヤ4×8…でもない、4×9だったかなぁ。
でも値段はそれよりもずっとずっと高くて驚いたネ。4×9、8×9だった……。
この人の作ったキューは、よ〜く切れるってカットの時に言うんだけど、
でも特別にそんなことなくて…まぁうたい文句ってやつ??
1991年のカンザスシティでのイベントで
彼にホテルを手配してもらって同室に泊まったの、ハイアットだった。
これがキチガイのもと、いやマチガイのもとだったね〜。
そのイベントにはGinacueが来る、というのでブースがあって、
でもアーニーは初日も2日目も来なくてネ。
最終日のお昼に「ようやく出来た!」と言ってやって来て、
キューケースをガバッと開けてあっという間に黒山の人だかり!!
オイラは右から左までゼ〜ンブ買いたかったけど4×9がそれを許さない。
見に行くと袖を掴んで引き戻され、
隙を見てまたすぐに見に行ってもまた見つかって引き戻されるの繰り返し…。
結局欲しかったGinacueを一本も買うことができずに、
最後に4×9が私に約束したのが
「同じものを作ってやるから待ってろ。俺のキューの方がずっとずっと100倍も良い!!」
だったわけだ。
そして出来上がって何本も買わされたけど、
今だから正直に言うけど…、
思ってたのと全然ちがうし、値段もGinaよりずっと高くてネ。
おまけにというかルックスも全然似ても似つかない…
例えるならば「トップモデルと田舎のお母さん」って感じ?
そしてダメ押しがあったのよ。
こっちが直に4×9に支払ったのより
シカゴの某ディーラーが売り出していた金額の方がはるかに安いの。
元々は私のオーダーモデルだったのに…私は良いカモだったのか?
しかも「シカモスタイル」だって!!
昔はあのモデルは“シカモ”スタイルだった訳。
それがなまって…“シカゴ”なのよ、
真実ってオソロシイよね〜、サムイ!!
今ではもうこんなに大きなアイボリーインレイのキューはなかなかないのよネ〜。
レアです、レア!!
手にすると昔のことがまるで30年も前のことのように感じます…
え、ナニイッテルカワカンナイ??
もう66歳のもうろくじいさんの話でした〜
メデタシ!メデタシ!!